K-Titleback
K-Titleback 明日キットデキル絵 K-Titleback
K-Titleback Gallery K-Titleback
Gallery K-Titleback
K-Titleback Profile K-Titleback
K-Titleback Movie K-Titleback Profile K-Titleback
Movie K-Titleback K-Titleback Mail K-Titleback Link K-Titleback
Mail K-Titleback Link K-Titleback
K-Titleback Top K-Titleback
Top K-Titleback
K-Titleback Profile
K-Titleback Mail K-Titleback Link
K-Titleback
K-Titleback Top
K-Titleback
K-Titleback
カチンコ
映画タイトル少年
タイトルバック
カチンコ タイトルバック カチンコ
カチンコ
タイトルバック

 そしてその数ヶ月後にTVで放送されたのがドラマ「戦国自衛隊 関ヶ原の戦い(第1部 さらば友よ。第2部 愛する者のために)」でした。今回の物語は映画版前2作よりも少し時間の経った1600年天下分け目の関ヶ原の戦いが舞台。この歴史的な大事件の真っ最中に飛び込んだ自衛隊の二つの小隊。考え方も行動も違う伊庭と嶋村の二人の小隊長がそれぞれ率いる部隊を対比させながら2週に渡って描いていました。

 自衛隊の3日間の演習が終わったその日、帰途の最中空から突然降りてきた光によって伊庭明義と嶋村拓也それぞれが率いる小隊26名がタイムスリップ。彼らが来たのは関ヶ原の合戦の年の琵琶湖周辺だった。伊庭はそこで小早川秀秋と出会う。お互いに友情のようなものを感じる二人。そして、彼らとその彼らの装備に強い関心を抱くのが徳川家康と石田三成だった。特に家康の執着は強く、自陣への度重なる助勢を求めるが伊庭はどちらにも加担しないことを貫く。家康は秀秋に姉のおしのと世話をしている少女おりんを人質に自衛隊を攻撃させる。何人もの仲間を失った自衛隊員。ついに嶋村は中立であることをやめ、戦うことで生きる証を立てようとする。彼と彼に従う小隊は伊庭の小隊と袂を分かち、大阪城へ赴く。そして石田三成を殺害、嶋村自ら石田三成と名乗り西軍を率いる。そして関ヶ原の戦いがはじまる。

 原作は半村良になっていて基本設定も違いますが、これはおそらく最初の79年版映画のリメイク。今回の主人公の反町隆史演じる伊庭明義は前作の伊庭義明から一部分だけ名前が変わっていまが、これは前作の主人公の伊庭義明が持っていた大きく二つに分けられる本質のうちのひとつ、”冷静沈着で的確な判断力を持ち部下想い”という部分を強く意識したキャラクター造形になっていて、前作とは違う人格の別人だからなのかと思っています。対してもうひとつの”強く逞しく大胆不敵、結果を考えす戦う事により力を示す行動力”というような部分は、もう一人の主人公である渡部篤郎演じる嶋村に受け持たせています。この一部矛盾するようにも思える性質を二人に振り分けることによってキャラクターの性格を単純化しながら、物語はその二人の友情と確執という形で展開していくのです。こう考えると実は複雑な本質を持っていた前作の主人公を千葉真一はその一瞬みせる嬉々とした表情で見事に演じていたとは思うのですが。

 主人公だけでなく、その物語の設定もある意味単純化されています。今までの群雄割拠の戦国時代では国同士の関係は三つ巴、四つ巴と複雑で誰に味方したからどう変わるとか、そもそも敵味方の判別も力関係も明確なものは分からず、結果を容易に予測できません。前作は最初に出会ったのがたまたま影虎であったというだけで、もし本当に歴史を変えようとするなら、味方をするのは他の強力な戦国武将でも良かった訳です。それに対して今回は西軍と東軍の二択しかありません。歴史を大きく変えるなら史実とは逆の西軍を勝たせるという選択しかないのです。ですからストーリーも分かりやすく自衛隊はどちらへつくのかということがメインになります。

 そこで秀抜な描写を見せたのが徳川家康という人間狡猾さであり、人懐っこくも見えるもののその中に常に潜む残酷性。演じる津川雅彦はこの手の役柄が得意なのでしょうが、甘言と恫喝で人を従えていく姿は恐ろしいものを感じます。戦国時代なら当然なのかもしれませんが、特に伊庭を手に入れようとするための手段は常に人の弱みにつけ込んだものでした。対して石田三成は小早川秀秋の方を重要視しているようで、彼を取り込むために恩義や情に訴えたり、関白の座を約束したりと色々に策略を巡らせます。もちろん家康も黙ってみていることも無く…。

 物語のクライマックスが関ヶ原の戦いになるのは当然でしょうから、そこに到るまでいかに勝てる策を打つか、誰を味方につけるためにどうするのかその葛藤も含めて描かれていきます。このように戦いにおいての描写で今回のドラマが前作の映画と大きく違うのは、前作の驚くような戦術の描写より、その戦略的な部分の描写が非常に多いことです。戦争は準備が9割というらしいですが、これはまさにそれです。いざ関ヶ原の合戦が始まると、それまで精力的に動いていたのとは打って変わって家康は本陣で菓子を食べながら阿茶局とイチャついているだけなのですから。

 そんなざまざまな人物が織り成すドラマ部分の描写も良かったと思います。教科書にも多く登場するような歴史上の人物達は、ここではとても個性的に描かれます。津川=家康はもちろん竹中直人の石田三成はそのビッグネームとは裏腹に随分と矮小で求心性のない、しかしながら愛すべきキャラクターとして描かれますし、他にも妖艶な淀君や、良く出来た嫁のイメージも強かったおね腹にいちもつ持っている姿なある意味魅力的です。(意外にも秀頼は利発そうですし)またこうした有名人だけではなく、タイムスリップした自衛隊員たちもそれぞれが戦国時代での生き方を見つけていく様子が現代の若者らしく描かれます。これまでで一番女性の割合が高く、白石美帆や賀来千賀子、前田愛などが演じる戦国の女性たちとのそれぞれのエピソードはみていても華やかですし、初めて人を殺してしまった自衛隊員の苦悩など、多くいる自衛隊員達はそれなりに個性をもって描かれていたと思います。(ただ彼らはあまり歴史に干渉しないということには無頓着のようです。割と積極的に現地の人と交流を試みるので)

 そんな自衛隊員の中で一番個性を爆発させるのが嶋村で、理想論だけを押し付ける伊庭に対し、このままでは燃料も武器も底をつくそんな状況を現実的に受け止め、自分の存在を証明するために戦うことを選択します。さらに余命1年ということが彼の行動を大胆にしていきます。「歴史ならすでに狂っている」そういって家康暗殺まで企て、西軍に参加して三成を殺し、彼に成り代わるという驚くべき行動を取るのです。ですが、そんな嶋村だからこそやはり憧れる格好良さがありました。「関ヶ原で会おう」そういって伊庭と別れるシーンは何か「八甲田山」(77年)を思い出しますし、「未練を残すな。生きた証を残そう」という台詞には思わずぐっときてしまいました。

 しかし、このドラマで最も魅力的に描かれていた人物はやはり小早川秀秋でしょう。演じるのは藤原竜也。彼の多少オーバーアクト気味の演技も時代劇ならハマります。そんな彼が伊庭との友情から僅かに本心を見せる場面や三成と家康の狭間で揺れ動くシーン、自衛隊を攻撃したときの能面のように動かない表情などその苦悩を観ている側も感じることができます。

 特に記憶に残る場面がふたつ。そのひとつ、嶋村が石田三成として秀秋を尋ねて来るシーン。自分が400年たっても裏切り者、卑怯者として世の中に名を残していることを知らされた秀秋。何よりも名誉を重んじる戦国武将に対してはかなり有効な手段だったのでしょう。タイムスリップ物では必ず期待してしまう本人が自分の未来を知るこのシチュエーションに対して一瞬言葉をなくす秀秋の心中は想像すると辛いです。(でも、最初に嶋村が三成と名乗ったときの「おい、全然似とらんぞ!」という台詞が何かちょっと可笑しかったです。)

 もうひとつはやはりこのドラマ最高のくだり。関ヶ原の合戦が始まりながらどちらに対しても動かない秀秋が、西軍を裏切り攻撃を仕掛ける場面。戦いの直前に殺されたおりんの遺体を伊庭は秀秋に届け、「おりんを殺したのはお前達だ!」そう秀秋に詰め寄ります。息絶えたおりんを抱きながらその秀秋は伊庭に聞くのです。「どうすればいい?どちらが勝てばいい?どうすればこの戦国の世が終わる!?」”歴史を信じるなら家康”と答える伊庭に「家康なのだな」そういっておりんの遺体に手を合わせ檄を飛ばした秀秋は西軍にむけて出陣するのです。やがて終わる戦い。単身伊庭のもとへ来た秀秋はもう一度聞きます。「本当に太平の世が来るんだな?」黙って頷く伊庭に対して彼は最後にこういうのです。「ならば良い。裏切り者のそしりなど望むところだ!」 

 良いです。素晴らしく良いです。思わず涙が出てしまうほど良いです。もともと秀秋自身不遇の人生を歩んできた人物。おねの甥だったことから豊臣秀吉の養子として育てられ、将来を嘱望されながら秀頼の誕生により秀吉から疎まれ小早川家に養子に出された彼。元服したてで参加した朝鮮出兵では先頭に立って奮闘し、手柄を立てながら三成の悪意ある進言により秀吉から不興を買ってしまう哀しさ。力を認められず、城主でありながら厭世を決め込んだ感もあるその秀秋が、おりんの死をきっかけに求めたのは未来。戦の無い世界、理不尽な死に方をしない世界、そんな未来を彼は自らの汚名と引き換えに心から望んだのです。

 このドラマ、多分おかしなところはたくさんあるのでしょう。そもそも何故タイムスリップが起きたのか。前作では信長のいない戦国時代の歴史を正すために歴史が自衛隊に信長の役割を託すものでした。しかし今回は彼らが行かなくても歴史は元のままであるように思え、自衛隊が行く意味が無いのではないかと。もしかすると秀秋の動機付けとも考えましたがちょっと歴史自体が動くにしては理由が弱いですし。細かい部分にしても例えば徳川の忍者が簡単に装甲車を使えなくしたり(どうやって?)、しかも、その理由が伊庭を抱きこむ手段というのも変。戦力の少ない伊庭を抱き込んで何のメリットがあるのか? とか。ミリタリーの知識は皆無ですが戦車砲の威力とか拳銃の装弾数など、その辺も結構おかし気な空気は感じます。そもそも訓練後なのだからそんなに補給物資も無いのではないでしょうか。戦国時代の人々も割と皆彼らが400年未来から来たことを平気で受け入れるしほかにも色々。特に自衛隊員や小早川秀秋の死に方やその後のラストなどはちょっと…。秀秋が自衛隊を助けるなら自軍を率いるなどして欲しかった。単身乗り込んで機銃を撃つなど、無謀すぎます。せっかくそれまであれほど思慮深かったのに。

 でも、自分にとって作品の評価が左右するほどには気になりません。それらを上回るほどの面白いドラマをここまで作ってくれたのだから。映像の印象的なシーンだってたくさんありましたし。最初にタイムスリップしてきたときに、状況を確認するためヘリで大阪に向かったときに見た夕焼けに照らされる大阪城とその城下町、それを見下ろすヘリ。世界の広がりと説得力を感じさせるこんなシーンは前2作の映画の中にはありませんでした。中盤での自衛隊を襲った秀秋と伊庭が対峙したときにその真ん中に落ちる雷のシーンなどはケレンミもたっぷり。最後の関ヶ原の合戦シーンでの戦国時代の軍勢と自衛隊との戦いも迫力満点に描かれます。特に移動するカメラで走る足軽ごしにヘリを臨むカットなど大好きです。飛ぶヘリを呆けてみている足軽たちのカットやヘリにむけて一生懸命矢や槍を飛ばすのに全然届かないシーンなど戦国時代の意識のギャップを如実に表していて面白いです。自衛隊の協力を得た装備一式は本物を使用していますし、そんな戦車が家康の戦術により油の沼で火達磨になるシーンや、忍者がヘリもろとも自爆するシーンなど迫力は十分。完全に自分のなかでは日本のTVドラマの枠は超えていました。劇中かかる前作と同じ戦国自衛隊のテーマが空しさを含んだ哀愁を感じさせ、自分にとっては「戦国自衛隊1549」の悪いイメージも払拭してくれた本当に楽しめた印象深いドラマでした。

 

 「戦国自衛隊」の各作品はその善し悪しに関わらず、自衛隊員を主役として描いた数少ない映画でした。次回はそんな多くない自衛隊員が主役の映画のひとつで原作者が「戦国自衛隊1549」と同じ作品である「亡国のイージス」について書きたいと思います。

 

その1へ戻る)

近くのページ
フィルムケイ01
ぬいぐるみと少女

●SCENE-021「魔界転生」

●SCENE-022「激突 将軍家光の乱心」

●SCENE-023「戦国自衛隊

●SCENE-024「戦国自衛隊1549

●SCENE-025「戦国自衛隊 関ヶ原の戦い

●SCENE-026「亡国のイージス」

●SCENE-027「パトレイバー2 The Movie」

●SCENE-028「ユナイテッド93」

●SCENE-029「マーシャル・ロー」

●SCENE-030「宇宙からの脱出」

映画動物
MOVIEメインページへ
フィルムケイ02

Top | Gallery | Movie | Profile | Mail | Link

Gallery Profile Movie Mail Link Top Top Top MOVIEメインページへ