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タイトルバック 近未来シュミレーション映画が描いた日本人にとっての平和 タイトルバック
タイトルバック 「機動警察パトレイバー2 The Movie」 タイトルバック
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タイトルバック 2011.05.21 タイトルバック
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 1999年、東南アジア某国。PKOとして派遣されていた自衛隊機械化部隊は、ゲリラ部隊と遭遇、攻撃を受け損傷する。移動さえままならない状況で、なおも増大する敵に、部隊長は本部へ発砲許可を要請する。しかし本部の答えは「交戦は許可できない。全力で回避せよ」。しかし回避など出来ず、敵の攻撃は熾烈さを増す。まっすぐに自分を目指すミサイルに只自らの身体を晒すしかない隊員達。「隊長!」悲鳴のような助けを求める部下達の声が無線の中で断末魔に変わる。目の前で一人また一人と殺されていく部下達を目の当たりにした隊長と呼ばれた男は自分の中で何かを断ち、トリガーに指をかける。

 いきなり何かを突きつけられるような場面で始まるのが今回の「機動警察パトレイバー2 The Movie」。パトレイバーといえば、近未来の東京を舞台に、レイバーと呼ばれるロボットを操り、事件を解決する警視庁特車2科の活躍を描いた有名なロボットアニメで、80年代にメディアミックス路線を展開し大ヒットしたシリーズ。今回のこの映画は当時そのシリーズの最終作として作られましたが、そのテーマに選んだのが”東京でおこる戦争”でした。

 事件は冒頭のシーンから3年後の2002年、横浜ベイブリッジが突然ミサイルで爆破された事から始まります。同じ頃、ベイブリッジ上空を飛んでいた自衛隊機がビデオに映っていたことから疑惑が自衛隊へ向けらるのですが、自衛隊は関与を全面的に否定。そんな時、警視庁特車2科の後藤警部補と南雲警部を訪ねて陸幕調査部の荒川という男が現れ、事件調査の協力を求めるのです。彼はミサイルを発射したのが自衛隊機ではなく本当は米軍機であること、そしてその米軍機でさえ被害者で、それらを仕組んだある男の存在を示唆します。その男の名前は柘植行人。3年前に志願してPKOとして行軍し、全てを失った男。顔色を変える南雲隊長。彼との間にはかつて関係があって…。同じ時SOC(航空総体防空指令所)が自衛隊三沢基地から東京へ向かう正体不明の機体を捕捉するという事件が起こります。連絡がとれず、ベイブリッジの再来を恐れた司令官は最終的に撃墜命令を下してしまう。しかし、これもまたコンピューターが描き出した虚構の攻撃。この非常事態に混乱する政府内で、権限の拡大を画策した警察上層部の思惑も絡み…。事態は収拾されるどころか確かな情報が何も無いままに悪化の一途をたどり、自衛隊と警察、政府がそれぞれ不信感を募らせ、ついに政府は”予測される最悪の事態に対して警察では対処できない”との声明を発表、自衛隊に対して治安出動を命じるのです。東京に雪とともに降り立つ完全武装の自衛隊員達の姿。揺らぐ平和という状況…。

 とにかく映画全編を覆い尽くすのは圧倒的な緊迫感。それを支える映画としてのリアリティ。更にそれらを成立させる驚くほどに繊細なディテール。最初のミサイルを打ったと思われた空自の戦闘機は、当時はニュースでも取り上げられていたFX(次期主力戦闘機)として候補になっていたF-16で、米軍機とのその細かい装備の違いが事件の手がかりの一つになりますし、戦車や装甲車なども同様で自分みたいな素人ではほとんどわからないほどに偏執的。自衛隊で行われる通信の台詞などもそうで、特にSOCとスクランブル機の会話など、なんとなくそれっぽいというレベルではなく、専門用語が頻発し、知識などなくても絶対にこう言うはずだと確信できるぐらいの本物らしさ。(LDのブックレットには他の情報そっちのけでこのシーンだけ台本を見開きで全文掲載していた)。ストーリー上の展開でも、自衛隊と警察の軋轢が生じ政府が混乱する様子を、例えば、政府による三沢基地への飛行禁止命令 → それに抗議するために東京へ向かおうとした基地指令を青森県警が連行 → それに怒った三沢基地が実質的な篭城に入る → その三沢基地に各基地が同調 → その責任をとるために陸海空の幕僚長が辞職 → 原因を作りながら何もしない警視庁への過度の不信感という流れで、良くぞここまでというくらいのリアルに描かれていました。

 そんな細かいディテールに支えられたリアリティで描きだされるのが、治安出動した自衛隊と街としての東京。夜の闇のなかネオンをバックに配備につく自衛隊車両。警備についた自衛隊員の様子を追う報道。朝には通勤途中の会社員が戦車とすれ違い、幼稚園へ向かう園児達が自衛隊のレイバーの搭乗員に手を振る。そして洋服店の華やかなショーウインドーの前で直立で銃を構える若い自衛隊員。日常の中の非日常。自分達が見ていた風景に入った異質な存在。それに掻きたてられるのは好奇心であり、しかしそれ以上に圧迫する不安感と緊張感。そして、それは我々市民からだけのものではなく、彼ら自衛隊員達からも同じ印象として捉えられているはずなのです。任務につきながらも普段とは違う風景を呆然とみている自衛隊員の表情がそれを理解させます。どちらが現実でどちらが非現実かではなくて、その両者ともに間違いなく現実に存在しているのに、一緒の場所にいるということがここまで日常の世界を異質なものにしてしまうことの不思議さを感じます。そしてそれはやはり現実に確固として存在していながら日常ではない戦争という状況が、今まさに切迫しているという雰囲気を確かに感じてしまうのです。

 何故そう感じる事ができるのかと言えば、結局それはこの映画がアニメとしては徹底的にリアリティを追求した結果だと思っています。当時の日本の実写映画では絶対に出来なかったこの画。かといって普通のアニメではファンタジーのなかでの現実世界として簡単に受け入れられてしまう。この時代で、この画をスクリーンに写し出し、そこにこの違和感を表現する最も適した方法だったのだと後々ではありますがそう思ったのです。

 さて、この映画で最も印象的なキャラクターといえばやはり元自衛隊員で今回の事件の首謀者である柘植行人です。この映画を思い出すときの印象は”柘植の戦争映画”。それほどまでに柘植という男のインパクトは強烈です。彼は、自分達ではたった一個の爆弾も一発の銃弾も使わずに東京を内戦状態の一歩手前にまでさせるのです。彼の目的は東京という街に”戦争”という状況を創りだし、自分が体験したものと同じものを東京で平和を甘受する人間達に見せつけること。そして、自分達が今いるこの世界が実は平和などではないことに気づかせること。彼はその目的のために立てた計画は明確です。ヘリで攻撃する場所は国家機関の要所ではなく、東京につながる橋であり、通信アンテナであり、地下通信ケーブルです。徹底して交通通信網を遮断し、東京を隔離。都市機能を失った東京で情報のないままにそこにいる人間に自分の目で戦争を体感させるのです。

 しかし、ここまで柘植のイメージが強いのに、いつも観返すたびに驚くのが、その柘植の登場場面の少なさ。最初のPKOのシーンと最後の逮捕されるシーンの他は、確か中盤で南雲と一瞬再会する場面の合計3つ。時間にしておそらく5〜6分くらいではないでしょうか。時間の映画にたったこれだけ。まともな台詞すらラストシーンにいくつかあるだけです。それでもなおこの映画が柘植の映画という印象を受けるのは、映画の全編にわたって登場人物の誰もが柘植の影を追いかけているからです。後藤に協力する松井刑事は捜査官として柘植の足跡を追い、後藤は柘植が何を考え何をしようとしているか終始考える。南雲は柘植への感情をにじみ出させ、決起部隊の同士達は柘植の命令で行動を起こす。特に荒川が後藤に話した”日本と日本人にとっての戦争と平和論”を聞くとき、それは荒川ではなく柘植の言葉としてこちらに入ってくるのです。

 映画舘でこの映画を観た当時から、この作品は自分にとってある部分で特別忘れられない映画となりました。それはこの「パトレイバー2」が自分がそれまで観た中ではじめて”日本人にとっての戦争と平和”というテーマを描いた映画だと思ったからです。もちろん戦争を扱った日本映画はたくさんありますし、素晴らしい作品や、自分にもこれはと思うものも何本もあります。ただ、戦争を扱った映画の多くが”反戦と平和の大切さ”をいながら、それらは”人として”であって、”日本人としてではなかったと思っていたのです。昔のハリウッドで、スペクタクル重視の大作映画等によく使っていたとってつけたようなテーマの”人類への警告”とか”人類のおごり”とかの言葉は、実は”人類”ではなく”アメリカ人”なのではないか? 本来は”アメリカ人への警告”であり”アメリカ人のおり”ではないか? というイメージ。でも、それまでの日本の反戦映画にもそれと同じことを感じていたのです。特攻隊や学徒兵を描いて”人として戦争はいけない”で良いのか。戦争の中で日本人の文化や価値観こそが問題になった部分は多いのではないか。戦争を起こした原因さえ”日本人”という属性は重要なファクターではなかったのか。今の日本の平和は人類の共通のものと認識できるのか?

 だからこそこの映画で荒川と後藤が語る”日本という国にとっての平和とは何か”という部分に惹かれました。映画の中でここまで直接的に言葉として伝えられたことなど無かった。”他国の戦争で得られた血まみれの経済的繁栄に基づく平和” ”戦争への恐怖による形振り構わない平和” ”不正義の平和” ”戦争をしていないというだけの消極的で空疎な平和” そうやって日本人は自分達が戦争の僅か後方にいるだけであることを忘れ、そんな欺瞞に満ちた平和のなかで生きているのだと。後藤が言った”たとえ不正義の平和でも正義の戦争よりはよほど良い”という言葉を当時非常に心地よく感じてしまった自分もすでにそんな平和を享受する日本人なのですが。

 この映画が製作されたのは1993年。その2年前にはペルシャ湾に掃海艇が、前年に初めて自衛隊がPKOとして派遣された、そんな自衛隊を取り巻く状況が大きく変わった時代。自分の友達も自衛隊の掃海部隊だったため非常にこれらの出来事が現実的だった頃。連日ニュースでは自衛隊の話題が流れ、ときにはその法的な問題なども取り沙汰されました。そんな時代に作られた映画だから内容はその時代に非常にタイムリーなつくりになっていました。しかしながら、この圧倒的なリアリティで構成されたこの映画についても、こと柘植の起こす事件についてはさすがに話が大きすぎたかなという印象は拭えませんでした。たったこれだけのグループによるテロで、いくら軍事的に脆弱とはいえ一千万都市の東京が、そして日本という国が大混乱に陥いるなどはちょっと考えづらかったのです。しかし、その十年後、この映画の舞台となる2002年にこの作品を見直したときに、これを大げさとも荒唐無稽とも思うことはもうありませんでした。まさにその直前に間違いなく世界は変わったのですから。2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロはその衝撃とともに、映画の先見性をも証明してしまったのです。そしてそれは自分達の社会に対する認識力の不明さをも痛感させるものでした。

 

 テロによる世界の変貌。現実にそれが起こるまでは本当に信じられないものでした。その思いはそれを体験したアメリカが一番良く分かっているのでしょう。次回はなかなか客観的に映画として作ることの出来なかったハリウッドがはじめてアメリカ同時多発テロを描いた映画「ユナイテッド93」について書きたいと思います。

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