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カチンコ
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タイトルバック 憧れと現実の距離が天国と地獄よりも大きかった警察組織。 タイトルバック
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タイトルバック 「セルピコ」 タイトルバック
カチンコ 048 カチンコ
タイトルバック 2011.00.00 タイトルバック
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 漆黒に染まる画面の中、バックにはただサイレンの音が聞こえる。やがて映るパトカーの車内で、顔面を血に染め、虫の息の髭面の男。そんな彼を何か複雑な表情の警察官が運ぶ。8分署に入った一報に電話を取った警察官の言葉が一瞬詰まる。「警察官が撃たれた…。セルピコだ。」その言葉に隣にいた警察官は間髪いれずにこう聞くのだ。「警官の仕業か?」それに対する返答は「心当たりは6人…。」

 全く事情のわからない状況であるはずなのに、セルピコを殺そうとしたかもしれないのは警察官であることが自明の理であるかのような状況とショッキングなシーンで始まるこの映画。かつて腐敗するニューヨーク市警に対してたった一人で抵抗した実在の人物であるフランク・セルピコの実話に基づく物語をアルパチーノ主演で映画化したのが、今回書く「セルピコ」(73年/アメリカ・イタリア)です。

 警察学校を卒業し、憧れの警察官になったセルピコ。しかし現実は自分の理想とはるかに違っていた。仕事をさぼり、罪を見逃す代わりのたかり。何よりも何の説明も無く当然のように渡される賄賂。警察内では賄賂を集金し、仲間で分配することはすでにルーティンとなっていた。自分はいらないと賄賂の受け取りを拒否するセルピコ。そんなセルピコを最初は周りも不思議そうに見たり、そういうものだからと笑って窘める。しかし何時までも賄賂を受け取らず、周囲に迎合しないセルピコに視線は冷たくなっていく。部署が変わっても刑事になっても警察内部の汚職だけは変わることはなく、賄賂を払わない者に暴行を加えたり、手口も複雑化するなどエスカレートしていく。それでも一人だけ賄賂を受け取らないセルピコは周囲から孤立するだけでなく、身の危険さえ感じるようになる。抑えきれずに伝を頼って警察上層部に報告するも、改善されるどころかますます一人で追い詰めれられていく。すでに警察全体が腐敗していることを理解したセルピコは、内部告発することを余儀なくされる…。

 学生時代、映画が趣味といえるようになったはじめの頃のお気に入りの映画は「ゴッドファーザー」(72年/アメリカ)でした。当然、アル・パチーノも好きでしたが、それらは多分みんな友人の影響だったと思います。その友人がアル・パチーノが好きで、「ゴッドファーザー」も初見はたしか彼に借りたものだったはずです。そういえば「狼たちの午後」(75年)も「スカーフェイス」(83年)もその友人の家で観記憶があります。「ジャスティス」(79年)はその頃丁度TV放送していたのでそれを観ましたし。

 そんな中でこの「セルピコ」は何故か当時見ることはありませんでした。警察内部の汚職と孤立していく主人公という内容がビデオのパッケージの暗さと相まって、陰惨なイメージしか想像できなかったからかも知れません。実際に映画を観たのは随分後のことでした。(ちなみにその友人が大好きだった「クルージング」(80年)は当時はおろか今にいたるまで観ていません。多分これからも観ないような気がします。ちょっと苦手な方向のようなので。一度だけ観ようかなと心が動いたのはレイザーラモンHGがブレイクしたときだけでした。)

 そんなやっと観た「セルピコ」ですが、それまで抱いていた自分の印象とは少し違うような気がしたことを思い出します。なにか明確にはいえないのですが、主人公はもっと熱く警察の腐敗を許せないという態度で不正を糾弾していくが故に反感を買っていく、そんなイメージだったのですが、アルパチーノ扮する主人公のセルピコはなにかとても”静か”に見えたのです。

 突然無遠慮に彼の目の前に差し出される分け前の賄賂。それに対して彼は静かに「俺は賄賂は受け取らない」そう言うだけです。犯人を追跡し、捕まえたりするときは猟犬のように激しく行動しながら、賄賂を差し出されたときはそうなのです。「それは犯罪だ!」と声高には叫んだりしません。同僚に汚職を止めるように訴えたり、警察組織を変えたいというような理想を語ったりもしないのです。

 もちろん、他の者が賄賂を受け取ることに対しての不満も怒りもありますし、自分の恋人や自分を理解する僅かな人間には心情を吐露することもあります。しかし、彼の目的はそもそも警察組織の浄化ではありません。彼はやっとなれた憧れの警察官として、自分が心の中で描いてきた警察官という仕事を納得いくようにまっとうしたいだけのように思えたです。

 それは彼が警官になりたいと思った理由からも伺えます。昔近所で起こった殺傷事件。現場に群がる野次馬。子供だったセルピコは何が起こったか見たくても、人ごみに邪魔されて見ることができなかった。しかしその頑強な人ごみがあっという間に二つに割れ、そこから警察官が現れる。彼ら警察官はその特別な権利と職務によって真実を知りえる立場なのだと感じたセルピコ。彼が警察官に憧れたのは、正義とかではなく、警察官の仕事が周囲からも特別で人に誇ることができる、そんな思いだったのです。

 だからこそ、彼は賄賂を受け取ることによって自分が考える警察官の仕事を出来ないと思ったはず。それでも最初は自分が受け取らなければ何とかなると考えていたであろうセルピコでしたが、現実はそうではありませんでした。賄賂を受け取らないことは社会の中の警察官としての職務を果たすことが出来ても、警察組織の中で警察官として存在すること自体が難しかったのです。”自分は正しいはずなのに。それが警官の仕事のはずなのに。自分以外の周囲全てが自分と違う。同じ警官であるはずの彼ら全員は違う価値観と違う職務を行っている。” 警察組織の中では彼こそが異分子でした。

 結果的に人づてにトップである本部長に話をし、スパイのような真似までさせられることになってしまうセルピコ。もはや彼の職務もまた、周囲と同じように警察官の本来の職務とかけ離れてしまいます。しかも彼の行為は、同じ警察官から見れば裏切り行為。しかし、それでも状況は全く変わらず、彼は一人追い詰められていくのです。

 それでも彼は警察官であることにこだわります。とび出てしまえば楽だとも自分なら思いますが、セルピコは汚職のないところを求め、部署を異動していきます。しかしそこでも彼は敬遠され、脅迫までされ、私生活でも恋人と別れるなどぼろぼろになっていく。最後には制服警官に戻ってもいいからと懇願するセルピコ。何故ここまで警察官でい続けようとするのか正直自分にはわかりませんが、けっして意地になっているとかそんなものではないような気がします。彼にはまだ、状態さえ正しく戻れば、本来の自分が憧れた警察官として存在できる希望があると思っていたのかもしれないのです。

 そんな彼の戦いを映画は淡々と描いていきます。彼の自宅のシーンではセルピコが刑事になった頃に買った犬がいつも映っていました。その子犬はシーンを重ねるたびにどんどん大きくなっていきます。それはセルピコの戦いが本当に長い時間であったことを理解させてくれますし、成長する犬の体はそのままセルピコの苦悩と痛みをも時間とともに大きくなっていくことを示しているようにも見えました。

 当時のアメリカの警察官、そして警察組織は本当に腐敗していたそうです。何が原因なのかはわかりませんし、すでに問題はそこではなかったのでしょうが、当時のアメリカでは警官と悪人は同義だったのです。劇中にもあるように市民からは頼られるどころか子供からも蔑まれるような存在だった彼ら。彼らにしてもそれが犯罪であることは知っていますし、バレれば自分の人生が終わってしまうことも知っています。ただ警察組織自体がそうであるために犯罪としての意識は低く、公然と汚職を繰り返すのです。それを見張る上層部にしても、警察としての体裁と威厳を守るため、たとえそれらを知っても揉み消すことを選択します。もしかしたら、それらは昔彼らが作ったシステムなのかもしれず…。

 だからこそ、セルピコの行動は裏切りでした。犯罪であることを皆が理解しながら、皆がそれに対して追求せず、皆が利益を享受するからこそ成り立っていたシステムです。それを知りながら利益だけ受けないセルピコは自分に負い目がない分、他の警察官からすれば、いつはみ出すか解らない爆弾に見えてしまったのでしょう。よく警察官は特に仲間意識が強いという話を聞きます。しかしこんなのを観てしまうと、警察官の仲間意識というのは、同僚の能力に対しての尊敬や命を預ける信頼感というより、お互いに監視しあい、抜け駆けや裏切りを許さない全員がうまみと弱みを共有するという負の連帯感のようなものだったのかとも思えてしまうのです。

 映画終盤、警察本部長にもニューヨーク市長にさえ聞き入れられなかった告発を、新聞にのせることによって公にさせることに成功します。それにより揺れる市警。セルピコもそれが原因で麻薬取締課へ転属させられます。そこは更に汚職が酷く、賄賂の額も桁違いでした。最初から敵として認識されているセルピコ。そして捜査中についに彼は撃たれるのです。

 この場面、一応麻薬犯が立てこもったアパートの内部から誰かが撃っています。しかし、犯人側の描写に緊張感が薄く、画面の端にスッと映りこんだ拳銃がゆっくりした動作でセルピコを撃つ、その何かぬめっとした不快感とその後の同僚の不可解な行動は、やはりこれが単純な事件捜査ではないことを見せたかったように思えるシーンでした。

 昔、ドラマに出てくる警察官は会ったことはなくても現実にいるはずのヒーローでした。「太陽にほえろ」の刑事たちは犯罪を憎み正義に順ずる正義の味方であり、純粋に憧れました。だから、ドラマの中で露口茂演じる山さんが情報屋に影でお金を渡すようなシーンでさえも何か嫌な感じを覚えてしまうほどでした。しかし現実はそんなことなどむしろ良いことだと思えるほど、影を持っていました。

 随分昔にはやった本「交番のウラは闇」などの一連の暴露本に書かれていたのは汚職だけではない警察内の信じられないような体質でした。前にニュースを騒がせた警察官である仙波巡査部長の内部告発の内容と彼が受けた悲惨な境遇に皆が戦慄しました。「これからはそのようなことはないようにする」という警察幹部の言葉はなにかにつけてよく聞きますが、「それらがこうやって改められました」という話はついぞ聞こえてはこないのです。

 しかしながら連続刑事ドラマのラスボスが、警察上層部であるという展開が多くなったようにも思える昨今、作り手に深い考えは無いのかもしれませんが、意外性を出せるのと同時に、それが視聴者を納得させられる一番手っ取り早い敵に思えているのかも知れません。そしてそれに対して普通に観ている我々視聴者もすでに警察とはそんなものだという認識が染み付いているのかも…。

 

 この映画で描かれた多くの悪徳警官たち。彼らの存在を穏やかに認めることなどできませんが、そんな悪徳警官でも主人公として存在できるのがまた映画の面白さなんだと思います。そんな自分がイメージする悪徳警官が主役という映画の中で、その行動が自分が好きでいられる範疇の節度をもった主人公の映画といえば、「フレンチコネクション」だったかなと思うのです。いや、けっして映画に描かれたポパイ刑事は悪徳刑事ではありませんでしたが次回はその「フレンチコネクション」について書きたいと思います。

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